鉄道会社は、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、どこも減収を余儀なくされている。規模の大きいJRグループを除く大手私鉄16社の中で、定期外旅客の減少率が最も大きかったのは、京成電鉄で32%の減少。ちなみに2番目に減少率が大きいのは、南海電鉄、3番目は京急電鉄、4番目は名鉄だった。いずれも国際空港のアクセス鉄道を運営しており、新型コロナウイルスの影響による渡航制限が各社の収入を大きく減らしているのが分かる。とくに京成電鉄は、運輸収入の3分の1が成田空港アクセス輸送に由来するため、厳しい状況に追い込まれている。本書『京成はなぜ「国内最速」になれたのか』(交通新聞社新書)は、そんな京成電鉄の由来を解き明かした本である。
著者の草町義和さんは、1969年新潟県生まれ。鉄道趣味誌やウェブサイト制作業を経て、2003年から鉄道ライターとして活動を開始。鉄道誌「鉄道ファン」「鉄道ジャーナル」などに寄稿している。
タイトルの、「国内最速」は若干説明が必要だ。新幹線を除いた在来線の中で「国内最速」という意味だ。在来線の最速列車は成田スカイアクセス線を走る、京成「スカイライナー」の時速160キロだ。2番目は130キロで、JRや近鉄の一部特急のほか、常磐線特別快速や京阪神の新快速で実施している。
北越急行ほくほく線内を走るJR特急が160キロで走っていたが、北陸新幹線長野~金沢間の延伸開業に伴い廃止されたため、いまでは京成電鉄が在来線で日本一早い鉄道になった。
成田スカイアクセス線の開業に伴い、「在来線最速」となった京成電鉄だが、その歴史は紆余曲折の連続だった。本書が詳しくその歴史をたどっている。
映画「男はつらいよ」で知られる「柴又帝釈天」がある京成金町線。帝釈天は常磐線の金町駅から南へ1.6キロの場所にある。そこで考えられたのが、人が客車を推す「人力鉄道」だ。1899(明治32)年に「帝釈人車鉄道」が設立され、開業。8年後に「帝釈人車軌道」に社名を変更した。6人乗りの小さな客車を64両保有。通常は1人で客車1両を押して「運転」したという。
帝釈人車軌道の開業から4年後の1903年、東京と成田を結ぶ「京成電気軌道」の軌道敷設特許が出願された。これがいまの京急電鉄の直接の起源だ。成田山新勝寺には江戸時代から多くの参拝客が集まり、1897年に総武鉄道の佐倉駅から成田に伸びる成田鉄道(現在のJR成田線)が開業すると、大勢の参拝客が利用するようになった。これに目を付けたものだ。
最初の事業は電力と「人車鉄道」だった。帝釈人車軌道を買収、1912年の8月頃には京成電気軌道の路線として営業を開始した。大手私鉄16社の中で、人車軌道を直営した経験を持つのは京成だけだという。
1912(大正元)年、押上からの最初の区間が開業。わずか5両の電車によるスタートだった。その後、船橋へ延び、成田を目指すはずだったが、千葉への延伸を優先させた。この「寄り道」が大成功。国鉄の総武本線に対して圧倒的な優位に立った。1930(昭和5)年、成田まで開業。運賃、所要時間ともに国鉄を圧倒した。
始発駅の押上は隅田川の川向うにあり、都心への乗り入れが悲願だった。当初目指した浅草への乗り入れはなかなか実現しなかった。上野への乗り入れが実現したのは1933(昭和8)年だが、その背景には筑波山を目指した幻の私鉄「筑波高速度電気鉄道」の免許があったという興味深い逸話を紹介している。
現在の「つくばエクスプレス」に似たルートの鉄道だったが、鉄道を建設するつもりはなく、権利を他の鉄道会社に売りつけるのが目的だったという説がある。ともあれ京成は上野への乗り入れに成功した。
しかし、上野のほかにもう一つの都心ルートへの乗り入れが戦後実現する。1960年、都営地下鉄1号線との相互直通運転が始まった。日本初の郊外私鉄と地下鉄との乗り入れだった。
成田空港への乗り入れも簡単ではなかったことが詳しく書かれている。当初は国鉄が運営する成田新幹線の計画があったからだ。京成も乗り入れることになり、新型車両「AE車」が完成したが、開港が遅れ、1年ほど野ざらしになり、放火される事件まで起きた。
その後、成田新幹線計画は凍結され、千葉ニュータウン内の高速鉄道用地などを活用するアクセス線が整備された。印旛日本医大~成田空港間は時速160キロに対応した線路が作られた。
列車が非常ブレーキをかけてから600メートル以内に停止できなければならないことが法令で定められており、それが時速130キロの壁になっていた。同区間は高架橋で建設されたため、最高速度が160キロまで高めることが可能になった。こうして、日暮里~空港第2ビル間は最短で36分という驚異的なスピードアップが実現したのだ。
コロナ禍のいま、スカイライナーはガラガラで、その乗車ルポから本書は始まっている。人車鉄道から始まり、日本最速の空港アクセス特急を持つようになった京成電鉄。何度か経営危機があったが、乗り越えて今日がある。同社は東京ディズニーランドなどを運営するオリエンタルランドの筆頭株主であることはあまり知られていない。京成電鉄の川崎千春社長(当時)が、1961年にアメリカのディズニーランドを訪問。日本への誘致に向けて動いたのだ。
ちなみに、ディズニーランドの近くを走るのはJR京葉線で、京成線ではない。だが、東京湾の埋め立て地を有効に活用しようという狙いは今に生きている。新東京国際空港(成田空港)といい、東京ディズニーランドといい、千葉にありながら「東京」を名乗る施設があり、その余禄にあずかる千葉県民。評者もその一人として、複雑な心境だ。
京成電鉄は、首都圏では地味な存在の私鉄だが、「最速」であることを知り、誇りを持つ千葉県民も多いだろう。
BOOKウォッチでは、交通新聞社新書として、『こんなものまで運んだ!日本の鉄道』、『西鉄バスのチャレンジ戦略』、『旅は途中下車から』、『鉄道路線誕生秘話』などを紹介済みだ。
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