新型コロナウイルスは2023年5月、感染法上の第2類から第5類に移され、インフルエンザと同じ扱いになった。2020年初頭から、世界と日本が「この世の終わり」ともいえるような混乱に陥ったことが嘘のように、いま日本の飲食店には客があふれ、海外からの旅行者が観光地に押し寄せている。忘れやすい日本人の本領が発揮されたといえようか。
だが、わずか3年の間に、この感染症にかかった人は日本で3300万人を上回り、死者も7万4000人を超える。勤務先や商売が立ち行かなくなり、人生が変わった人はもっと多いかもしれない。
メディアはそうした実情をどれほど伝えてきただろうか。多くの政治家や医療の専門家がテレビ画面に登場しては消えていったが、その風貌と歯に衣着せぬ言動で異彩を放った一人が尾﨑治夫という人物だろう。
東京都医師会会長として、都道府県で最も深刻な感染爆発(パンデミック)の現場で指揮を執った責任者である。この尾﨑の3年間に密着した辰濃哲郎さんの『揺らぐ反骨 尾﨑治夫』(医薬経済社) が出版された。単独インタビュー40回、電話取材70回に及ぶ取材で浮かび上がってくるのは、尾﨑の政治や他の医療関係者に対するまっとうな怒りだ。
過酷な医療現場で格闘する医師たちを尻目に、政治家も日本医師会などの医療関係者も、いかに耳を貸さなかったか。それが新型コロナという未知の敵との戦争に対し、いかに危ういものであったか。彼らは後手の策しか打てず、場合によっては最悪の選択さえしかねなかった。尾﨑に密着することで、コロナをめぐる3年間の裏側が見えてくる。
辰濃さんは新聞記者のときから医療の取材を続けており、自民党の支持団体でもある日本医師会は重要な対象のひとつである。「日医(日本医師会)の常識は世間の非常識だと思っている」と綴る辰濃さんが、その中核組織である東京都医師会の会長に密着したのには理由がある。
タイトルにもある「反骨」という言葉だ。東京都医師会会長という立場で、東京都民をコロナから守るためには、日医という所属する組織はもとより、小池百合子東京都知事や自民党の幹部ら権力を批判することもためらわなかった。尾﨑のそうした姿勢に、辰濃さんはこれまでにない医師像を見たのだろう。
2020年の最初の緊急事態宣言を出すときの政治家の優柔不断と机上の空論、不評の極みだった「アベノマスク」に、尾﨑はどうかかわり、どう見ていたのか。その一端をテレビ出演した際に見た記憶のある読者もいるだろう。本書では、その内幕が肉声で語られている。最初の章のタイトルを借りれば、それは、とくに政治家に向けられた「現場に来い!」という叱責である。
こうした言動が続く中で、「首相官邸が尾﨑のスキャンダルを狙っている」という忠告を受け、実際にある週刊誌の記者が尾﨑の親族の過去の事件を取材にやってくるというくだりが描かれる。パンデミックという有事にもかかわらず、自分たちを批判するものを消し去ろうとすることに血道を上げる関係者がいることに呆れるというより、寒気を覚えた。
この取材に対する尾﨑自身の反骨ぶりは本書でとくとお読みいただきたいが、順天堂大学時代は、当初はノンポリ学生だった尾﨑が学生運動にかかわっていたことは触れておきたい。
新型コロナをめぐっては、その後も、「GO TOトラベル」の実施と中止、PCR検査とワクチン接種をめぐるドタバタ、東京五輪の無観客開催など、振り返ってみれば、政治家と政策担当者のちぐはぐな判断が引き起こした騒動が続く。その都度、尾﨑は現場の医師の感覚をもとに、メディアで「正論」を吐き、政策決定者とも対峙していくのだが、そうした尾﨑の言動がなかったら、日本のコロナの犠牲者はもっと増えていたのかもしれないと思わせる。
タイトルにある「揺らぐ反骨」の「揺らぐ」は最終章に詳しい。日本医師会という組織に属し、しかも東京都医師会会長という重職にあれば、組織の矛盾にさらされないわけにはいかない。そこで下した苦渋の決断や主張したが実現できなかったことも含めて、尾﨑という人間の軌跡といえる。
尾﨑治夫という人物について、テレビを中心としたメディアは、その過激な言動と独特の風貌に飛びつき、消費していった。だが、尾﨑が提起し、批判した問題を正面から検証したメディアはまれだった。これだけの犠牲を伴ったパンデミックを、未知のウイルスだったから、という言い訳にしてしまっているのが日本の現状である。
新型コロナのパンデミックは収まったが、いつまた、新しいパンデミックが来るかわからない。日本は、その準備ができているだろうか。 尾﨑治夫という一人の医師の戦いを追うことで浮かび上がった、新型コロナのパンデミックの実相を描いた本書は、そのことを強く私たちに突きつけている。
■辰濃哲郎さんプロフィール
たつの・てつろう/慶応大学卒。1981年朝日新聞社に入社。2004年退社後、新型インフルエンザなどの医療問題のほか、沖縄問題やメディア論、スポーツ取材もてがける。著書に「マイナーの誇り上田・慶応の高校野球革命」(日刊スポーツ出版社)、「歪んだ権威 密着ルポ 日本医師会 積怨と権力闘争の舞台裏」(医薬経済社)など。
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