日本新聞協会賞を2年連続受賞した、毎日新聞編集委員の大治朋子さんの新著が『人を動かすナラティブ』(毎日新聞出版)。「あなたの『物語』が狙われている」と本の帯にあるが、何を意味しているのだろう。そんな疑問を持ちながら読み始めると、戦慄の内容に衝撃を受けた。
ナラティブは通常、「語り」または「物語」と訳されるが、両方の意味がある。さらに専門家の分析を踏まえ、本書では「ナラティブ」を以下のように定義している。
「さまざまな経験や事象を過去や現在、未来といった時間軸で並べ、意味づけをしたり、他者との関わりの中で社会性を含んだりする表現」
日記から、SNSでのコメント、ニュース、小説など、さまざまなナラティブに囲まれて生きているにもかかわらず、ナラティブがなぜ人間を虜にするのか、そのメカニズムは知られていない。
本書では、国内外で近年起きたさまざまな事件や現象の背後に潜むナラティブのメカニズムとその影響力を解き明かしている。
本書の構成と主なタイトルは以下の通り。
第1章 SNSで暴れるナラティブ
・安倍晋三元首相銃撃事件と小田急・京王線襲撃事件 ・岸田文雄首相襲撃未遂事件と現代型テロ 第2章 ナラティブが持つ無限の力
・WBC栗山英樹監督が語った「物語」 第3章 ナラティブ下剋上時代
・伊藤詩織さんが破った沈黙 ・五ノ井里奈さんが突き崩した組織防衛の物語 第4章 SNS+ナラティブ=世界最大規模の心理操作
・ナラティブに感染させる「人体実験」 ・米国防総省の「ナラティブ洗脳ツール」 第5章 脳神経科学から読み解くナラティブ
・向社会性が低いとカモにされる ・脳内の「連想マシン」が操作される 第6章 ナラティブをめぐる営み
・柳田邦男さん「人は物語を生きている」
安倍晋三元首相銃撃事件で現行犯逮捕された山上徹也被告のSNSへの投稿に、ジョーカーやインセル(不本意な禁欲主義者)への関心をうかがわせるものがあるという。
「ジョーカーという真摯な絶望を汚す奴は許せない」(2019年10月20日)
「インセルは救済されるべきだが、彼らの言動や要求そのままが受け入れられる事はない」(2020年1月27日)
過激思考を研究する欧米の専門家の間で、インセルが「陰謀論者」だと位置づけられていると知った大治さんは、来日した「ドイツ過激化・脱過激化研究所」代表のダニエル・ケーラー博士にインタビューした。
インセルは自分たち男性を絶対的な被害者だと位置づける点で、「典型的な陰謀論ナラティブだ」と語ったという。
自分を被害者とすれば、そのナラティブと対立する主張はすべて虚偽であり、陰謀論にも見えてくるからだ。
ナラティブには階層性があるという。社会全体を覆うような大ナラティブ、企業やコミュニティレベルで共有される中ナラティブ、個人が発する小ナラティブだ。伊藤詩織さんは自らの性被害を小ナラティブのレベルから発信し、一部海外メディアがそれを取り上げ、裁判所が動き、大ナラティブを揺るがすほどの巨大なうねりになった。
伊藤さんにも著書『Black Box ブラックボックス』執筆の様子を聞いている。客観的な情報と個人的な記憶や思いを明確に区別して書いているという。そこに大治さんが重要と考える「2.5人称ジャーナリズム」の視点が感じられるとも。
元自衛隊員、五ノ井里奈さんが発した小ナラティブはSNSを通じて、自衛隊の組織防衛の中ナラティブを突き崩した。SNSによる中ナラティブ下剋上時代だと、指摘している。
しかし、企業や国家などによるSNSとナラティブによる心理操作の実態に迫った第4章を読むと、背筋が寒くなってくる。
英国に拠点を置く軍事下請け業者、ケンブリッジ・アナリティカによる、2016年の米大統領選での世論工作に関与した、内部告発者にも取材。市民のSNS投稿データはあらゆる目的に使えるという証言を引き出している。
ケンブリッジ・アナリティカは6000万人近いフェイスブックのユーザーの投稿をアルゴリズムで分析し、プロファイリングを生成。同社の心理学者らはそれをタイプ別に分け、それぞれの心に刺さりそうなナラティブを創り、「いいね」やコメントの反応をみた。
そうした実験を繰り返し、AIに学習させ、標的とする特定の市民層を心理操作する最適なプログラムを開発したという。
イスラエルの民間軍事企業やロシアのナラティブ戦術、米国国防総省の研究機関の動向にも迫っている。その究極の目的は、「個人や集団の脳内にも何らかの方法で侵入して、ナラティブの書き換えを行う。これはつまり脳を攻撃し、思考をハイジャックし操作する攻撃でもある」。
生成AIが普及し、そうした操作の障壁はどんどん低くなっている。個人としていかに対抗するか。そのヒントにもふれている。優れたジャーナリストによる、今読まれるべき「調査報告」である。
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