(連載タイトル)ローマで居候
イラストレーターのなかざわともさんが「ちょっとだけローマ暮らし」をつづる連載『ローマで居候』。今回は、現地の交通事情についてのお話です。
8月からローマの語学学校に通い始めた。平日の5日間、サクロファーノからローマ中心部までバスや地下鉄を使って通う。ローマ郊外の交通網は決して便利なものではなく、どの家も車が欠かせないという。
毎朝6時に、空が明るみ始めるのと共に起きる。家から駅まで歩ける距離ではないので、1日に20本ほどの小さなバスを使う。陽の光がジリジリと強まっていくのを感じながらバス停に立つ。時刻表には上り・下り方面の出発時間が記されているけれど、こちらの公共交通機関は基本的に時間通りに運行されることはないので、遅れても早まっても良いように十分な時間を確保して待たなくてはならない。ひたすら「待つ」力が試される。
バスの運転手に「Ciao!」と挨拶し1回1ユーロのチケットを渡すと、チケットの真ん中を指で割いて返される。クネクネと曲がりくねった山道を、車体をガタガタと揺らしながら進み、駅へ向かう。8月はバカンスのシーズンのため、学生の姿を見かけることは滅多にない。ローマへ仕事に行くであろう顔馴染みらしい大人達が、ラフな服装でペチャペチャとお喋りを楽しんでいる。降車時も運転手への挨拶は「Ciao Grazie!」と欠かさない。
バスの次に乗るローマ-ヴィテルボ間を南北に結ぶローカル線は、どの車両もとても古い。外側は隙間なく落書きで埋め尽くされ、ギョッとする見た目をしている。ボックスシート式の硬い椅子、ドアは怒っているかのような勢いで乱暴に開閉し、冷房はなく窓の外からの風を待つだけである。観光客はほとんど乗っておらず、車内には淡々とした日常の通勤風景が広がる。ほとんどの席が緩やかに埋まって、終点であるローマ北の玄関口、ポポロ広場すぐのFlaminio(フラミニオ)駅に午前8時ごろ到着する。白んでいた空は濃い水色になって、1日の始まりを知らせる。濁りのない青空を見上げると、毎朝自然と頭がしゃっきりする。
夕方にはよく列車の運行トラブルが起こる。基本的にはホームでじっと待つほかない。
まだ鉄道に慣れていなかったころ、来るはずの列車が出発時刻を15分過ぎても到着しないことがあった。近くにいた中年男性に事情を聞くと「いつものことだよ」と諦めたように肩をすくめる。蒸し暑いホームでは苛立ちも募り、駅員に詰め寄る人も怒鳴り声をあげる人もいた。しかし30分遅れで列車がノロノロとやってくると、先程までのイライラをケロッと忘れたかのように大きな拍手と歓声が上がり、皆が笑顔で列車に飛び乗る。その感情表現の素直さには驚かされた。
何事も時間通りが当たり前の日本では、遅れて列車が到着したところで、それは喜ぶことでも評価されることでもないだろう。完璧ではない、雑とも思えるローマの交通には、「人間がやっているんだから仕方ない」というような、諦めとゆとりが感じられる。
予定通りにいかないことが多いけれど、私は帰り道が好きだ。
列車はゼェゼェと息切れするかのように音を立てながら、ゆっくりと市内から離れていく。観光客の賑わいにあふれた華やかなローマが幻だったかのように、質素で生活感に溢れた飾らない街々へと乗客を運ぶ。
老若男女、様々な肌の色をした人たちが、暑さに疲れた表情の中にどことなく達成感を滲ませながら、思い思いの時間を過ごす。1日が終わったのだ。夕方6時でも夏のローマは日が高い。西側の窓から、日差しが鋭く差し込む。
駅を過ぎるたびに車内から乗客が減っていく。窓の外に建物が消え、日差しを浴びて輝く薄緑の丘陵が広がり始めると最寄りの駅が近づく合図だ。滑らかなカーブを描く丘の斜面には、冬のために刈り取られた牧草のロールがゴロリゴロリと並んでいる。そのロールが草原に落とす影は、駆け回る子供たちのように不規則で楽しげだ。白い牛の群れが木陰に集まり、それぞれの尻尾を揺らす。
ぽつりぽつりと車内に残る地元の人々は、スマートホンに目を落としたまま見向きもしないが、東京の半端な郊外で育った私は毎日新鮮な驚きを持って、その豊かで長閑な景色に目を奪われている。
学校の先生やクラスメイトは「遠いところから毎日通って大変だね」と気の毒そうに言うが、この眺めが私はなかなか大好きなのである。
今回、印象に残ったイタリア語のフレーズはこちら。
「Meno Male!」(メノマーレ!)「あぁ良かった!」
ホッとした瞬間に思わず口からこぼれるフレーズ。1本逃せば大幅に時間がかかってしまう電車やバスでは、乗り遅れまいと駆け込む人をよく見かける。ドアが閉まる直前に間に合ったときは、一安心で「Meno Male!」
■なかざわ ともさんプロフィール
1994年生まれ、東京在住のイラストレーター。学習院大学文学部卒。セツモードセミナーを経て、桑沢デザイン研究所に入学。卒業後、イラストレーターとして活動を開始。
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