7月24日(2020年)に開会式が行われるはずだった東京オリンピック。国旗を掲げた各国の選手団が入場行進をしていたに違いない。本書『国旗・国歌・国民』(角川新書)は、日本で唯一の「国歌」研究者が、国旗と国歌、そしてスポーツとの愛憎の歴史に迫った本である。
著者の弓狩匡純さんは、作家・ジャーナリスト。1959年生まれ。米テンプル大学教養学部卒業後、世界50カ国以上を訪れ、国旗や国歌への関心を深めた。著書に『世界の国歌・国旗』、『国のうた』(いずれも株式会社KADOKAWA)、『国際理解を深める世界の国歌・国旗大事典』(くもん出版)、『社歌』(文藝春秋)などがある。
「はじめに」で、弓狩さんは、「近代スポーツは、血で血を洗う武力衝突に代わる手立て、代理戦争として発展してきた側面があります」と書いている。スポーツは国の威信を高め、愛国心を鼓舞する装置として機能してきたという。
そのため、オリンピックなどのスポーツイベントでは、国旗の掲揚、国歌の斉唱は、なくてはならない儀式となっている。ナショナリズムに翻弄された、さまざまなエピソードを披露している。
本書の構成は以下の通り。
第1章 国旗・国歌とスポーツとの出合い 第2章 愛国心とナショナリズムの狭間で 第3章 国のシンボルと国際政治 第4章 アスリートと国旗・国歌 第5章 特別儀仗とスポーツイベント
スポーツの試合が引き金になり、実際に戦争になった例を紹介している。中南米の隣国、エルサルバドルとホンジュラスは1950年代から、国境問題、移民問題で緊張関係にあった。1969年、両国は国交を断絶、臨戦態勢に入った。そんな折、ワールドカップ・メキシコ大会の予選で両国が対戦した。
1勝1敗で迎えたプレーオフは、メキシコシティで行われた。結果は、エルサルバドルが3対2で勝利し、最終ラウンドへ進出を決めた。この結果に失望したホンジュラスでは、エルサルバドル移民に対する襲撃事件が相次ぎ、大量の移民が母国へ逃げ込む事態となった。
これを受けてホンジュラス空軍が国境監視所を爆撃、本格的な戦闘になり、両国合わせて約2000人が死亡する本当の戦争になった。
よく知られているように、各国の国歌の歌詞は極めて血なまぐさい。例えば、フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」。
「開け 戦場にあふれるおびえた敵兵たちの叫びを 彼らは我らが陣地に攻め入り 子どもたちや妻の喉を掻き切ろうとしている 市民たちよ 武器を取れ!」
アメリカの国歌「星条旗」の中にも、こんな一節があるという。
「危険きわまりない戦闘の最中にも 我らが死守する砦の上に 星条旗は 雄々しくひるがえっていただろうか?」
近代国家の多くの国歌が、国の原点や原風景を明確に語っているのに対し、日本の「君が代」は、『古今和歌集』の古歌から明治になりつくられたもの。「我々日本人が固有のアイデンティティであると論理的に紐付けし、感情移入することは容易ではありません。往々にして古代史にありがちな堂々巡りの議論に終始する傾向が見受けられます」として、来歴の違いが国歌への受け止め方の差になっている、と指摘する。
国旗がオリンピックに初めて登場したのは第4回ロンドン大会(1908年)で、それまでは個人やチーム単位でも参加申し込みができるほど規模が小さかったこと。また1912年の第5回ストックホルム大会から48年の第14回ロンドン大会までは、古代オリンピックに倣いスポーツとともに芸術競技(建築、彫刻、絵画、音楽、文学)も開催されたこと。聖火リレーが行われたのは、第11回ベルリン大会(1936年)が初めてで、コース周辺の道路事情や地形はナチス・ドイツによってくまなく調査され、そのデータは後にドイツ軍参謀本部が活用し、第二次大戦では、ルートを逆にたどりドイツ軍が侵攻したことなど、オリンピックにまつわる興味深い話が満載だ。
入場行進でどの歌を歌うか、表彰式でどの国旗を掲げるかでトラブルになった例も多いという。日本に関係する話では、ベルリン大会で男子マラソンの金メダルを獲得した孫基禎選手が、表彰式で日の丸を隠し、「東亜日報」が胸に縫い付けられた日の丸を消した表彰式の写真を掲載し、発行停止となった「日章旗抹消事件」を詳しく紹介している。
弓狩さんは、「おわりに」で、新型コロナウイルスが戦後最大のパラダイムシフトを引き起こすことが容易に想像できるとして、感染終息後、国家という枠組みそのものが様変わりする可能性も大いに秘めている、と期待している。
人類はナショナリズムを克服できるのか、国旗や国歌への対応が、そのバロメーターになりそうだ。
BOOKウォッチでは、『評伝 孫基禎――スポーツは国境を越えて心をつなぐ』(社会評論社)を紹介済みだ。
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