「完璧な人生なんてないけれど、『これでいい』と思える今日はある。」
ファン・ボルムさんの『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』は、韓国で2021年に電子書籍として、2022年に紙の書籍として刊行され、累計25万部(2023年9月26日現在)を突破したベストセラー小説。待望の邦訳版が集英社より刊行された。
物語の舞台は、ソウル市内の住宅街にできた「ヒュナム洞書店」。新米女性書店主と店に集う人々の、ささやかな、それでいてなににも代えがたい日々が描かれている。
本書は40のショートストーリーで構成され、ユーモアと格言があちこちに散りばめられている。人物と場面がテンポよく入れ替わったり、ハッとする言葉がいくつも出てきたりする。最初の数ページを読んだところで、「出合えてよかったと思える一冊になりそう」と直感したが、本当にそうなった。
ヨンジュは10年以上勤めた会社を辞め、「ヒュナム洞書店」をオープンした。はじめのころ、青白い顔でぼんやりと座り、しょっちゅう泣いていて、客は寄りつかなかった。涙の理由は過去にあり、それ自体がなくなることはない。それでも、本を読むことでヨンジュの心は健康になり、店は居心地のいい空間に変わり、客が来るようになった。
ここしばらく、ヨンジュは「去ってきた人たちの物語」を読みあさっている。自身も、ある場所から去ってきたからだ。それが涙の理由と関係しているのだが(真相は終盤に明かされる)、今では「あのときは、ああするしかなかった」と思えるようになった。
「彼女は、正解を抱いて生きながら、時にぶつかり、実験するのが人生だということを知っている。やがて、それまで胸に抱いてきた正解が実は間違いだったことに気づく瞬間がやってくる。そうしたらまた別の正解を抱いて生きていく。(中略)人生の中で正解は変わりつづけるものなのだ。」
店をオープンして1年になるころ、ミンジュンという青年をアルバイトのバリスタとして採用した。ミンジュンは中学から大学までずっと、優等生であるために努力し、必死に走りつづけてきた。にもかかわらず、就職できなかった。競争、比較、未来への不安から、もう解放されたいと思っていた。
なにやら訳ありの店主が営む「ヒュナム洞書店」には、無気力な男子高校生とその母親、夫への不満を爆発させるコーヒー業者の女性、ネットでブログが炎上した兼業作家の男性......と、これまた訳ありの人々が訪れる。
就職難、燃え尽き症候群、家庭不和、過酷な労働環境、非正規雇用など、抱える悩みはさまざま。ただ、挫折を味わい、人生に絶望し、心もとなさとともに今日を生きているという点で、彼らは共通していた。立ち止まって休む時間を必要としていた。
ヒュナムの「ヒュ」には「休」の字が充てられるという。巻末の「作家のことば」には、「自分だけのペースや方向を見つけていく人たちの物語」を、「悩み、揺らぎ、挫折しながらも、自分自身を信じて待ってあげる人たちの物語」を書きたかった、とある。
程度や回数に個人差はあるだろうが、生きているかぎり挫折も絶望も避けては通れない。だから彼らの思考や台詞が、痛いほど胸に刺さる。自分も同じ輪の中に入り、悩みを打ち明け合っているようだった。希望を感じた数々の言葉のうち、とりわけ忘れられないものがある。
「初めての人生だから、あんなにも悩んで当然だったのだ。初めての人生だから、あんなにも不安で当然だったのだ。初めての人生だから、あんなにも大切に思えて当然だったのだ。初めての人生だから、わたしたちはこの人生がどう終わりを迎えるのかもわからない。初めての人生だから、五分後にどんなことに出くわすかもわからない。」
BOOKウォッチは、この1月で更新を休止する。個人的な打ち明け話をすると、BOOKウォッチに携わるまで、実はそれほど本を読んでいるわけではなかった。それがいったん本のある環境に身を置いてみると、読書がいつの間にか人生の喜びの一つになっていた。紹介文を書くことは想像の何倍も困難を伴ったが、では、数百ページの本を書き上げるのはどれほどのことだろうか、と思う。
最後に書く一冊を書店で探しながら、「本」や「書店」という原点に戻るのもいいなと思い、本書を手にとった。ヨンジュにとっての「良い小説」は「期待以上のところまで自分を連れていってくれる物語」という一節があるが、まさに、本書は私にとってそんな物語だった。
読みはじめたころに鬱々としていた気分が、読み終えたころにはちょっと遠くに感じられた。本書を読んでいる間に、自分の中にいい変化があったようだ。運命的な出会いや出来事はそうそうないが、本となら、それよりも高い確率で出合うことができる。これからも、たくさんの本と出合っていきたいものだ。
■ファン・ボルムさんプロフィール
小説家、エッセイスト。大学でコンピューター工学を専攻し、LG電子にソフトウェア開発者として勤務した。転職を繰り返しながらも、「毎日読み、書く人間」としてのアイデンティティーを保っている。著書に『毎日読みます』、『生まれて初めてのキックボクシング』、『このくらいの距離がちょうどいい』がある(いずれもエッセイ、未邦訳)。本書が初の長編小説となる。
■牧野美加さんプロフィール
まきの・みか/1968年、大阪生まれ。釜慶大学言語教育院で韓国語を学んだ後、新聞記事や広報誌の翻訳に携わる。第1回「日本語で読みたい韓国の本 翻訳コンクール」最優秀賞受賞。チェ・ウニョン『ショウコの微笑』(共訳、クオン)、チャン・リュジン『仕事の喜びと哀しみ』(クオン)、ジェヨン『書籍修繕という仕事:刻まれた記憶、思い出、物語の守り手として生きる』(原書房)など訳書多数。
当サイトご覧の皆様!
おすすめの本を教えてください。
本のリクエスト承ります!
広告掲載をお考えの皆様!
BOOKウォッチで
「ホン」「モノ」「コト」の
PRしてみませんか?