「邪馬台国はどこにあったのか?」は江戸時代から論争になっている日本史のミステリーだ。歴史の探究に書物の存在は欠かせないのだが、日本最古の書物とされる「古事記」でさえ8世紀に書かれたもの。邪馬台国があったとされる3世紀のことを書き記した書物は日本にはない。その意味では、歴史には「空白」がある。
だからこそ「邪馬台国論争」はなかなか決着を見ることがないのだが、一つのヒントとなるのが当時中国大陸にあった魏の国の人が日本について書いた「魏志倭人伝」だ。
『魏志倭人伝と大和朝廷の成立』(藤田洋一著、幻冬舎刊)は、この「魏志倭人伝」を紐解きながら邪馬台国の立地と今の日本につながる大和朝廷の成り立ちを解説する。
邪馬台国が存在した場所については「九州説」と「畿内説」が有力だとされてきたが、近年注目を集めているのが「畿内説」の一つで、邪馬台国が現在の奈良県にあったのではないかとする「大和説」だ。
「魏志倭人伝」によると、今から約1700年前、魏の国の使節団が倭国(現在の日本)を訪れた時の描写に、 「南至投馬國 水行二十日(船で南に20日航行すると投馬國に着く)」「投馬國の後、水行十日 陸行一月(船で水上を十日航行、徒歩で陸上を一月歩く)」 とある。
使節団は魏から九州に上陸し、近隣の国々を回った後、現在の福岡近くの不弥国から船で邪馬台国に向かったとされている。
実はこれが邪馬台国論争を難しくしている一つの要因だ。福岡から船で20日間も南に行ったら、太平洋に出て沖縄近辺まで来てしまうからである。ただ、いずれにしても九州から船で20日間行くのだとしたら「邪馬台国九州説」は説明がつかないことになる。
本書では、ここでユニークな仮説を立てている。
わざと魏の国が策略のため嘘を書いたのだと解釈すれば問題は解けます。
何故嘘を書いたのかというと、それは当時の魏のとある事情があったからです。(P23より)
つまり先述の邪馬台国までの道のりについての記述は、あえて嘘が書かれていたということである。
本書によると、当時の中国は魏・蜀・呉の三国が互いに争っていた。地形的に、呉からすると魏と親交のある倭がすぐ東にあるということになり、地政学的な脅威となる。逆に魏にとっては、倭は呉に揺さぶりをかけるのに都合がいい。そんな事情から魏は倭の場所をあまり知られたくなかった。
では「魏志倭人伝」の中で魏がついた嘘はどのようなものだったのか。
本書では「南に20日」が実は「東に20日」だったのではないかとしている。そうすると「20日航行」した先の投馬国は、山陰地方の出雲あたりとなる。そこからの 「船で水上を十日航行、徒歩で陸上を一月歩く」 は、「船で水上を十日航行=さらに東に十日航行すると、京都の舞鶴付近に到着」、「徒歩で陸上を一月歩く=舞鶴から徒歩で一月」となり、「邪馬台国=畿内説」に信憑性が出てくる。
本書では畿内の中でも現在の奈良県にあたる大和にあったとする理由として、「魏志倭人伝」のオリジナル版(写本ではない原本)の中で「邪馬台国」の「台」が旧字の「䑓」ではなく「壹(トウ)」を使って「邪馬壹国」とされていたことを挙げている。つまり「邪馬台(やまたい)」という読み方がそもそも間違いで「邪馬壹(やまとぅ=大和)」だったのではないか。
◇
邪馬台国はどこにあったのか。
おそらく結論が出る日はまだ遠いはずだが、本書で紹介されている「邪馬台国大和説」は「魏志倭人伝」の解釈だけでなく、当時の中国と朝鮮半島の情勢が織り込まれ、思わず引き込まれる厚みを持っている。
この邪馬台国がいかに大和朝廷に繋がっていくのか。ユニークな歴史解釈に触れられる一冊として、歴史が好きな人は楽しめるのではないか。
(新刊JP編集部)
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